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北アイルランド問題(きたあいるらんどもんだい)

北アイルランド問題(きたあいるらんどもんだい)は、北アイルランドにおける紛争問題の総称である。20世紀におけるイギリスの最大の政治問題と言われている。


■概要
19世紀以降、アイルランドの民族運動が高揚するにつれ、イギリスではアイルランド人に自治権を付与しようとする意見もあらわれてきた。しかしアイルランド独立運動が高まる中、15世紀にアイルランドに移住したイングランド系・スコットランド系入植者の子孫であるプロテスタント系住民は、カトリック系住民が多数をしめる新国家で少数派となることを恐れ、独立に反対する傾向が強かった。この傾向は島32州のうちプロテスタント住民が多数派を占める北部のアルスター地方にある6州でもっとも強かった。

1920年、イギリス政府はアイルランド統治法を制定し、北部6州はアイルランド議会で定める法の適用を受けないことを定め、アイルランドを北アイルランドと南アイルランドの2つに分割し、独自の議会を認め、それぞれの自治権を認めた。

1922年12月6日、英愛条約に基づいてアイルランド全島がアイルランド自由国としてイギリスの自治領となった。しかしその翌日、北アイルランド政府はアイルランド自由国(後にアイルランド共和国として完全独立)からの離脱を決定し、イギリス(連合王国)への再編入を希望することをイギリス政府に公式に通告した。これにより、北アイルランドは独自の議会と政府を持つ、イギリス連合王国の構成国の1つとなった。

独立戦争を戦ったIRA(アイルランド共和軍)の一部はアイルランド国防軍に加わったが、一部は英愛条約に反対し、非正規軍としてアイルランド内戦で国防軍と戦った。


■「プロテスタント国家」
1921年から1971年にかけて北アイルランドは東ベルファストに基盤を置くアルスター統一党政府により統治されていた。創設者のジェームズ・クレイグは北アイルランドを「プロテスタントによるプロテスタント国家」であると述べている。

1920年代以降、IRAは時折、北アイルランド政府やその警察組織であるロイヤル・アルスター警察隊(RUC)に対し断続的にテロ行為を行なってきた。


■北アイルランド紛争
カトリック教徒が被っていた就職や住居そして政治上の差別は多数派に有利な選挙システムにより成り立っていた。1960年代アメリカ合衆国における公民権運動の活発化により差別撤廃への関心が強まった。カトリックによるデモが右派ユニオニストの影響下にある北アイルランド警察RUCにより暴力を用いて鎮圧されたため社会不安が増加した。またカトリック住民とプロテスタント住民との衝突も活発化した。

1966年、IRAに対抗するためプロテスタント系の非合法の民兵組織アルスター義勇軍が組織され、カトリック住民に対するテロ行為を開始した。

1969年に北アイルランド各地でカトリック住民と現地警察との間で大規模な暴動が繰り返し発生。騒乱を鎮めるために英軍部隊が北アイルランドに派遣され現地の警察に変わり街の警備につくことになった。現地警察に不信感を抱くカトリック住民は当初、英軍派遣を歓迎し、兵士たちにサンドイッチや紅茶などをふるまう姿が見られたが、軍と住民との間の友好関係は長続きしなかった。

1969年12月に行われたIRAの特別軍事会議は、アイルランド共和国議会への参加の是非と北アイルランド問題への対応を巡って激しく対立した。マルクス主義の影響を受けていた主流派はオフィシャルIRAを組織して穏健主義を掲げたが、北アイルランドのカトリック・コミュニティを実力で守ることを選んだメンバーによってIRA暫定派が結成されることになった。 行動方針は1969年以前のIRAのものをほぼ採用した。それによると、北アイルランドのイギリス統治はもちろんのこと、アイルランド共和国 (Republic of Ireland) をも非合法であるとしており、上に挙げた暫定政府の正規軍であると認められていたIRA軍事協議会こそが統一アイルランド (Irish Republic) の正統政府であるとされている。このような正閏論的な主張は1986年に撤回されたが、IRA暫定派の政治組織であるシン・フェインは現在も英国下院への登院を拒み続けている。

紛争は血の日曜日事件と血の金曜日事件が発生した1970年代前半に頂点を迎えた。北アイルランド政府に解決能力がないと見たイギリス政府は同年ストーモント議会(北アイルランド議会)を廃止し北アイルランドはイギリス本国政府の直轄統治下に入れられた。 北アイルランドではRUCと英軍、カトリック系のIRA暫定派、IRA、INLA、プロテスタント系のアルスター防衛同盟、アルスター義勇軍などが互いに攻撃・テロを繰りかえし、これらの事件による死者は3,000名にも及ぶ。テロは北アイルランドのみならず、イギリス本土、アイルランドにも伝播していった。イングランドでの死者数は125名に及び、またドイツ、オランダ、ジブラルタルなどヨーロッパ大陸でも英軍兵士を標的にするテロ行為や、 IRAに対する英軍特殊部隊の作戦などで18名の死者が出た。


■直接統治
以後の27年間、北アイルランドはイギリス政府に設けられた北アイルランド担当大臣による直接統治下に置かれた。この統治に要する主要な法律は通常の手続きに従い下院で可決・成立したが、多くの微細な取り決めは議会の審議を受けることなく枢密院令によって発布された。イギリス政府は地方分権を指向していたが、北アイルランドConstitution Actとサニングデール合意および1975年の北アイルランドConstitutional Conventionなどによる北アイルランド問題解決の試みは全て世論の支持を得られず失敗に終わった。

1970年代イギリス政府はアルスター化の方針のもとIRA暫定派 に対する対決姿勢を維持した。IRA暫定派 との対立の最前線にはRUCおよび英軍予備役であるUlster Defence Regimentがあたっていた。政府の強硬姿勢によりIRAによるテロは減少したものの、長期的にはどちらの勝利も望めないことは明らかであった。IRAのテロ活動に反対するカトリックも存在したが、差別措置を撤廃しない北アイルランド政府に対して彼らが好意的になることはなかった。1980年代になるとIRAはリビアから大量の武器を調達して攻勢にでようとこころみた。IRAに浸透していたMI5の諜報活動によりこの計画が失敗すると、IRAはその目標を準軍事的なものから政治的な方向へシフトするようになる。IRAの"停戦"はこの動きの一部であった。1986年にはイギリスとアイルランド政府がアングロ・アイリッシュ協定を調印し政治的な解決を模索した。長期にわたる紛争により北アイルランドは高い失業率に苦しめられ、70年代から80年代にかけて行われたイギリス政府のてこ入れによる公共サービスの近代化も遅々として進まなかった。90年代に入るとイギリス・アイルランド両国の経済が好転し紛争も沈静化する傾向が見えてきた。近年北アイルランドではカトリックの人口が増加しつつあり、全人口の40%以上を占めるようになっている。英国政府は、「北アイルランドの帰属は住民の民主的決定に従う」としている。


■地方分権による北アイルランド問題の解決
1996年になると交渉が再開し、1998年4月10日のベルファスト合意(聖金曜日協定またはグッドフライデー合意とも)により北アイルランド議会や、アイルランド共和国と北アイルランド議会の代表で構成される南北評議会が設立され、ユニオニストとナショナリストの双方が北アイルランド政府に参加することとなった。しかし両党の党首と北アイルランド議会は総選挙の延期を決定した。現在は各テロ組織の武装解除、北アイルランドの政治体制の変革、イギリス軍基地の撤退問題などが注目されているが、これまでの和平を担ってきた穏健派のアルスター統一党(ユニオニスト)と社会民主労働党(ナショナリスト)両党よりも急進的なアルスター民主統一党とシン・フェイン党の党勢が拡大しており今後も予断を許さない状況にある。

なお、ナショナリストは大抵アイルランド系、カトリックであり、ユニオニストはスコットランド系、プロテスタントである傾向が強いのは事実だが、この図式は必ずしも当てはまる訳ではない。また北アイルランドでも無宗教の層が増え、北アイルランド問題を「宗教問題」とするのは誤りである。


■影響
この問題による宗教的差別が原因で、北アイルランドの経済はサービス業を中心に打撃を受けた。

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